佛典には「七月十五日がお盆である」と書いてある。お釈迦様が説かれた本音は何か、誰も知ろうとしない。
罪とは自然(じねん)の法則に反した時に生ずる自責(じせき)である。自分自身が犯し、その結果、負わされるのが罰である。釈迦は梅雨(インドでは約二ヶ月間)時には飢え、時には渇きに耐え、専ら反省と精進の日を過す。その時「父母の思いを考えよ」と専心させた。弟子の僧達は皆、家族との縁を断ち、修行の為に唯一心に佛道修行し、縁者と音信を断っている。目連は悟りの第一段階を過ぎて、有頂天になっていた。釈迦は「今日の悟りはその様な頭脳と体を与えてくれた母に感謝を告げよ」と悟す。母すでに無く、餓鬼道に堕ちていた。釈迦は教える。母は素晴らしい。自らが悟りを得た今こそ母を救うべきである。その為に「他の未熟な修行僧達に修行が進むように、食物と僧衣を奉りなさい」と教え、僧全てに「お前達も未熟な僧へ修行供行の供養をしなさい」と教えた。 |
つまり僧が自分より未熟な僧達の供養によって、自分の両親先祖へ感謝の心を伝え、一日も早く悟りを得ることが、一番大切なのだと教えている。決して他宗の供養を勧めたわけではない。僧達は自分の身を懺悔して在家を廻り、御先祖の恩を説いた事にお盆は始まる。親鸞聖人は両親の供養のために写経を思い立ち九分通り出来ていたのに、「何でこれはこんなにつまらぬ事を思いたったのだろう。私は自分自身が悟りを開いて親を救いに行かないでどうする。佛弟子にあらざる行為ぞ」と反省している。僧として親兄弟と離れて修行することは正しい。しかし親兄弟を捨てることは自然の理に反する。しかしこれが悟りを得て佛となり、親兄弟を救うことはもっと素晴らしいことである。自分の理に反し越えて大自然の理に帰る。
当善興会の男性は全て、私の弟子になっている。他人には勧めないが、私一人は頭を剃り断食をし、精進を続けて七月十五日まで佛典を読み座禅して迎える。私に習うもよし習わざるもよし、面々に勝手に自分の一生を見つめ悔いのない人生を送ってほしい。 |