『同感と同情』
理事長 青木晃隆
 地球上に住む以上、何時何処で地震が起こってもおかしくない。地球が狂ってる、気候が可笑しいと言ってみても、自然現象は防ぎようはない。しかし何にしても腹立たしいことばかりである。
 後期高齢者制度も「死にぞこない制度」「早よ死ね制度」と言い換えたほうが適切である。
 高額の苦しい税金を長期に払い続け、働き続けた生き残りの老人たちである。いまさら言い換えても、更に憤懣は増すばかりである。運転マークにしても如何見ても「枯葉マーク」でしかない。「若葉マーク」はどんどん伸び繁えよ、「老人はどんどん散れマーク」でしかない。いっそ、真っ赤な「紅葉マーク」ならば、目立ちもするし、すっきりする。
 これら制度方法を考案するのは、中年の「無為無策者族」の仕業である。「早よ死ね制度」のシニア当事者の憤懣は爆発している。もっと温かみのある考え方は出来ないものか。
 道路財源がそうである。道路族等、利権者たちの利得のみ、国益を損ない無為無策である。地震対策をしっかりやるべきである。たとえ辺境の地であろうとも、狭い日本である。知恵もある。地すべり地帯を調査し、補強し、安心して住める安全な日本にしなければ、都会地に人口は集中し、山地農漁村は寂れる一方である。船ならば一点に重量が懸かり過ぎ、将に「日本沈没」は明々白々、時間の問題である。早よ死ね族は、早く死にたいものである。ただただ子や孫のことを考えると死ねない。
 「同感」とは感覚を同じくすることで遠くから見ていて、ああだこうだと首を振るのではない。高山の登頂場面をテレビで観れば、その山頂に自分を置き、山頂より嶽臥(がが)たる白雪を頂く峰峰を見、足底にむずむず感を覚え、胸にひやひや感じつつ、頬を吹き抜け髪を吹き上げる涼風を感じ、満足感に浸る。これが仏教に言う「同感」である。子どもを亡くした親に、自分が親の立場で自分の子を現実に亡くしたシミュレーションをして、苦しむ子どもの重さと動きを感じ、その動きが止まり頬の血が引き、目を閉じ口は開き、手足がダラッと、ただただ重く、呼べど揺すれど反応のない、再び声も上げない実感に心底思いを致す。其れが「同情」である。
 正に「紅顔むなしく変じて、桃杏(とうり)の装いをうしないたるときは、嘆き悲しめどもその甲斐あるべからず。夜半(よわ)の煙をなしはてぬれば、ただ、白骨のみぞ残れり。」それが実感できその思いが現実味を帯びるとき、「同情」したと仏教には言う。
 北朝鮮拉致問題しかりである。明日はわが子かと思い、わが身の問題ではないのか。「日本列島沈没説」こそ、直面の大問題であり、「鳴呼 無常」なり。