この語は、中国道教(どうきょう)にでてくる言葉であるが、天地宇宙の間の全ては、全ての神の前では明らかである。微塵(みじん)にも明らかでないものはない。
「天知る、地知る、人も知る」の(ことわざ)は、周知のことであるが、その前に「(われ)知る」の一語が要る。所作思考をしている本人、つまり、自分が一番早く知っている。(おのれ)が知っていても他人は知っていないと思っている。それが発現すると「知りませんでした」と責任逃れをしたり、開き直る。浅はか(あさくはかる)であり、馬を鹿と言い張る類である。
 福祉の「福」の左側は神に捧げる『灯明』乃至は『供物』を意味している。右側は神から与えられる作物の豊暁を意味している。「祉」はその神に対して真心を込めて「素直に受け取る(神妙)」ことを意味している。福祉は宗教そのものである。純粋単純に神意に副うことである。福祉も宗教も金儲けの手段としてはならない。一心に信仰修道していたら、寄進あり裕福な生活が出来た。良い事である。福祉に心を込めて行ってきて成功した。良い事である。儲ける目的で福祉や宗教を利用する。悪事である。「吾知り、天地神明の采配、明らかである」。吾も知らずに、悪害を世に他者に及ぽすことも多々あり、唯只慙愧(ざんき)の至りである。